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2017年11月15日 (水)

小笠原編(四)島の歴史

(四)島の歴史
 小笠原諸島は1593(文禄2年)、信州深志城主の曾孫、小笠原貞頼により発見されたち伝えられています。1672(寛文10年)紀州のみかん船が危機島に漂着した。その船は下田に生還して、下田奉行からこのことが幕府に報告している。幕府は探検船を派遣して島々の調査をした。当時の名称は「無人島」といい英語名ではBonin Islandであった。1803(文政3年)捕鯨が全盛期をむかえた。ナサニエル・セボーレなど欧米人が5人、そして20人のハワイ人が父島に上陸した。彼らは畑を耕し食料、水、山羊の肉、亀、鯨の脂をとるための薪、ラム酒など寄港する捕鯨船に供給して生計をたてていた。 人が最初に定住したのは江戸時代の後期の1830(文政13年)で捕鯨ラッシュで鯨の油脂をとっていた。欧米人と太平洋諸島民だった。1861(文久元年)幕府の軍艦咸臨丸(注1)かいりん丸が派遣されて、島民の既得権を保証すると伝え、日本の統治に従うように求めた。ここは欧米系の島民の島であった。幕府は八丈島から開拓民を送り、父島を基地として捕鯨事業を開始した。その後、江戸幕府や明治政府の調査と開拓に引き継がれて、1876(明治9年)明治政府は小笠原は日本の統治であると各国に通知して正式に日本の領土となった。その結果、欧米系の島民は日本に帰化した。そして八丈島から多数の移民が入って開拓をすすめた。
 大正から昭和初期には、亜熱帯気候を活かした果樹の栽培が盛んになり、漁業ではカツオ、マグロ漁にくわえて、捕鯨やサンゴ漁などを中心に高値で取引されて栄え、昭和15年には人口も7千人を数えるなど小笠原最盛期を迎えました。豊かな平和な島「小笠原」は、太平洋戦争により大きな転換を迎えることになります。1944(昭和19年)戦局の悪化により、軍属などとして残された825人を除く全島民6,886人が強制疎開させられた。1945(昭和20年))日本が降伏調印してアメリカの統治下になった。
敗戦により、小笠原は米軍の占領下に置かれることになります。昭和21年、欧米系の島民に限り帰島を許されましたが、他の多数の島民は故郷への帰島は許されず、慣れない土地で苦しい生活を強いられことになった。
 1968(昭和43年)8月、小笠原諸島は日本に返還され、島民の帰島がようやくかなうことになった。1979(昭和54年)村政が始まった。戦後23年間にも及んだ空白を埋めるために、国の特別措置法のもと様々な公共事業が推進され、新しい村づくりが進められている。
 2011(平成23年)に「小笠原諸島」が世界自然遺産登録になる。
 太平洋戦争の激戦地となった硫黄島では壮絶な戦いの末、日米合わせて二万余名の尊い命が失われた。返還後も火山活動などによる自然条件が厳しいことから硫黄島への帰島は実現せず、現在は自衛隊基地及びその関係者だけが在島している。

 ○ワンポイントレクチャー
 黒船の来航 小笠原で最初に様式捕鯨を指導したのはジョン万次郎でした。1863(文久3年)。現在ではクジラを食べる”資源”から”見る”資源へと180度方向転換し、世界最大の捕鯨動物の保護に努めています。
(注1)咸臨丸:長さ49m、巾7m、100馬力・帆船、1857(安政4年)進水、オランダで建造、江戸幕府の軍艦、購入金額10万ドル。  

 つぎに「ペリー提督日本遠征日記」(翻訳 木原悦子 童門冬二「小学館」)を開いてみる。マッシュー・C・ペリー著
 ペリー艦隊は沖縄から小笠原諸島に1853(嘉永6年)6月14~18日に、父島に来ている。その時の状況は捕鯨船がいてアメリカとイギリスだった。この場所は北緯26度30分~27度45分である。イギリス軍艦ブロッサム号のビーチ艦長と会う。ピール島(父島)のロイド港は適当な場所であった。近くの島は、バックランド島(兄島)、ステープル島(弟島)があり、南部諸島にはベイリー諸島がある。17世紀には、この島の存在が知られていた。火山島で流れた溶岩の岩肌が雨期に浸食したものである。父島の水は良質である。薪がとれるが少ない。サツマイモ、トウモロコシ、タマネギ、タロイモ、果物は西瓜、バナナ、パイナップルがある。豚、鶏がいる。これらは捕鯨船と交換するものである。入植者たちがいる。物々交換であり、入植者達に強い酒と交換すると喜ぶ。土壌は耕作に適している。ブドウ、小麦、タバコ、サトウキビなどで、サトウキビは入植者が栽培していた。ただし建築用材に乏しい。木質が良いのはジヤマナ(ムラサキフトモモ)である。島には鳥が少ない。カラス鳩と小型の小鳥がいる。野生の桑の木がある。海にはカツオドリがいるがカモメはいない。入植者たちが持ち込んだ四足獣かいて、豚、山羊、鹿、去勢牛、羊、猫、犬がいる。サスケハナ号(アメリカ艦隊の旗艦でである)のなかに乗組員の食料として飼育している牛、羊、山羊を島に放す。豊かな漁場であり、釣り針や引き網で獲ることかができる。海岸線の多くは珊瑚である。魚はボラ、スズキ、ダツ、エイである。鯨はうようよといる。オオガニがいて殻の貝の中に入り込んでいる、これを「海賊」と名付けた(ヤドカリの大きなもので陸地の草むらにいる)。伊勢海老が豊富である。アオウミガメがいる。
 父島にはハワイのルーツの人がいると聞いたがいなかった。
 それから御蔵島も調査してている。この海は潮流が非常に早くて最大の難所である。強い黒潮が流れている。御蔵島と八丈島の間に巾20町(半里)ほど東西100里の海流であり東北に流れている。この海流の流れは夏から秋にかけて、かなり弱くなるのではないかと思う。八丈島には懲役刑の受刑者が入植して入植団をつくっている。無人島が多数あり様々な薬草や木々がある。この島は1675年に日本人によって発見された。この島をブネシャ(無人島)と呼んでいる。
 ペリーは、このように現地を詳細に調べている。地形や海流や岩礁や海の深さを測量したり島の植物の標本をとったりしている(自分は学者ではないので標本はわからないがとにかく多く採取したとある)。日本という国がどのような国なのか、小笠原諸島から調査している。江戸幕府は長崎だけを外国に開港していた。江戸に行くには沿岸をジャンクという小型の帆船で行くか、もしくは陸路以外にはなかったのであるから、ペリー艦隊の蒸気船によってはじめて小笠原諸島から江戸に北上するのはペリー艦隊がはじめてであった。ペリーは事前に父島に航海して、よく調査して後、那覇に戻り艦隊を引き連れて浦賀に向かったのだった。那覇から江戸に1853年7月2日出港する。浦賀湾に着いたのは7月8日であった。(これから江戸幕府との厳しい開港交渉が始まる。余談ながらペリーがとった交渉術はアメリカ国を知るうえで今でも参考になるだろう)

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