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2019年1月12日 (土)

開田高原の大馬主の没落

開田高原の大馬主の没落
 大馬主の山下家のことである。以下は、大馬主というのは後の人がつけたもので、牛馬を売買する業であるから、馬喰というのが当時の呼び名である。さてその馬喰が、なぜ没落したのか、そのことを景気に、当時の明治時代を連想してみることにした。
 馬主の山下は、農家に耕作用の馬を貸して、小作させ、小作人に貸した馬に種つけさせて子馬を産ませて、その子馬を福島の馬市で売却して利益をあげていた。このことはすでに述べた。
では村の戸数どれだっただろうか。300頭を貸し付けたと言うから、村の戸数は300戸あったと思う。その300戸はひとつひとつの家族がいるので、これに平均家族数を掛けなければならない。明治時代は文明開化と戦争の時代であり、子供を殖やすことが奨励された。6人ぐらいが最もおおかった。しかしながら貧しい小作人としてこの村人の子供の数は少なくて、病気などで早死にしていたと思うと、子供の数は少なかったことだろう。その集落が風雪をのがれて谷間や低地に分散していたた思う。家は簡易な木造づくりで屋根は木の皮、その上に小石をならべて風雨を防いでいた。馬の運動のための屋外の囲いがる写真を見たが、それ以前は家のなかに人馬ともに住んでいたのだ。馬主の家にも馬が母屋に同居していたから、貧農の家ではそうだった。このような母屋に人馬いっしょに住むことは東北地方で曲り家と言ってある。L字型の家にて、Iの形に馬が住み、-の形が人の住む母屋になっている。馬の様子がよくわかるようになっていて、冬は寒さから守ることができる。暖かい九州では牛馬の小屋は藁束や農機きぐのある別の建物にそれはある。その家のつくりからして、人馬は家族の一員かのように大切にされた財産であっただろうが、それは東北地方のことで、開田高原のこの集落では馬の所有は馬主であるから、借り物ということになろうから、そのような財産ではない。横にそれたようだが、そうではない、なぜ馬喰が没落したかを説明するために述べている。馬の需要があれば、馬の供給がある。山下家が開田高原に馬の生産をしたのは、前述したが飛騨代官の馬廻り(小姓)をしていた者が、代官の許しをうけて、この地に馬の増産をはじめたことから始まる。馬の増産をするには、雌馬をたくさんもって種付けの牡馬が必要であった。牡馬は種付け用で馬主の独占でなくてはならない。
 江戸時代の中山道は宿場駅があって、宿駅と宿駅との間には荷物を運ぶ、または人を運ぶための馬が必要であった。幕末の開国には商売が盛んになって、宿場の馬数は規定よりも多い需要があった。これに目をつけた小姓の山下が、開田高原にその馬の生産のを考えた。それには馬を飼育することが必要である。飼育するには人がいる。その人はこの辺鄙で寒い地に持ってくるにはどうしたらよいか。誰もこの地に来て住む人はいない。その対象になる人は誰か、と考えただろう。そして穢多と思いついたのではないか。このことはあくまで著者のやぼな推量である、ことを断って(事実と違うこと)先に進めたい。彼らは牛馬の屠殺や皮の仕事を専業して幕府や藩から許可をもらって一カ所に住んでいた。戦国時代から江戸時代は牛馬の皮革は武具として使用されていたので、その職業にある人たちを専売として保護していた。しかしながらその地位は士農工商の下にあって差別された人々だった。穢多とは中国の偉い人の子供が鳥や獣をとって食べていたことからついた名であり、動物を殺すのを忌み嫌う我が国では、特殊な人として差別するようになった。戦後までその差別は残っていて、それは後に部落解放としての運動に発展する。そのことはここでは述べない。以下は推量による、ある古老の不確かな話として聞いたことにする、まったくのつくり話である。その前提で呼んで欲しい。一つとして他人に迷惑掛けたくないからだ。
 飛騨代官の馬廻りだった御徒の山下は、代官の許しをえてか、若しくは代官の命令によってか、開田高原で馬の大量飼育を始めることになったという話から始めたい。そのために、その人たちを強制的に連れてきて開墾と馬の飼育をさせることになった。馬の皮革は高く売れる。彼らは馬を所有していなかった。そこで馬主は馬を貸して、馬によって開墾させる一方、生まれた子馬の競売によって馬主が得た一部として馬主から3分の一のカネを受取った。そして開墾した農地からとれる穀物が彼らの収入だった。農地は馬主が所有していたと考えれば、さらに小作料相当を徴収していいたかもしれない。年貢は馬主が一括して納めて、農民に割り付けていた。それが小作料である。小作人達は馬主の支配下にあった。
 明治になって中山道の宿場の駅は廃止され、中山道よりも近い東海道の利用が多くなり、馬の需要は減少した。需要が減れば供給も減り、開田高原の馬の商売は落ち目になって、大馬主の山下家はしだいに没落していく。明治なると交通手段が鉄道になり、中山道には明治19年に鉄道敷設の調査が始まり明治43年全面開通した。
この商売の仕組みが壊れると、農民たちは村を離れて都市や町に移住せざるをえなくなる。そうなれば村は荒廃してしまう。しかし村の人たちのなかには、馬主による支配から解放されて、あらたな生活の道をこの地に求めた人もいたに違いないだろう。なぜなら、この土地を離れて違った都市や町で生活するのは、もっと生活は苦しくて危険な摩擦をともなうものだし、かえって先祖の墓もあってこの地から離れないほうがよいと思う人たちがいたことだろう。
 そのように考えて見ると、大馬主が衰退したのは、農機具の近代化ではなくて、環境の変化ということが考えられる。宿の廃止、鉄道の開通、交通手段の変化、離農者の増加、農村の荒廃などが時代とともに進んで馬の需要が減少した。しかしながら、開田高原の人々は、その生活は子孫になんらかの形か口伝えで残していただろう。辺鄙なところであればあるほど、それは継承されているからだ。明治維新において速くも四民平等がうたわれたが、まだその残影が今日においても片隅に残っているかもしれない。島崎藤村の「破戒」はそのことであり、明治時代においても、その島崎藤村の暗さはそこにあったかもしれない。この物語を思いついたのは、島崎藤村の姉の園が木曽福島の高瀬家に嫁いでいることから始まる。その高瀬家という木曽福島の代官の御側役、砲術指南役、勘定役などの要職にある武家であり幕末まで使えたとある位いの高い家であった。その高瀬家は関所と並んで建っている。高瀬家においてそ藤村の姉、園が可愛がっていた女中がいた。その女中が高田高原の大馬主山下家の息子と結婚したそうな。それを聞いて大馬主山下家の息子と高瀬家の女中では釣り合いがとれない、それでいてなぜ婚姻がなされてのだろうかという疑問をヒントにして思いをめぐらしてみたのだった。山下家が没落していったその過程はまだ自分は知らない。空き家になって民宿として使われていた、というのは近代であって、敗戦後農地改革によって小作地が自作地に強制的に変換されたその時をもって、消滅したのではないだろうか。宿駅がなくなっても軍馬の需要は明治から昭和敗戦まではあっただろう。そして開田高原新田開発に馬の需要があっただろう。しかしその時は大馬主による支配の構造はなくなって、持ち馬として農耕や林業用として使われていたことだろう。
 いま開田高原には木曽馬が保存されている。もうあの大馬主はいないが、その歴史はどこかに残っているのだ。開田高原おける人々の生きたあかしは民俗の歴史である。残さなくてはならないのは、日本の歴史であるからだ。
 開田高原は時雨だった。霧がかかって、御嶽山も見えない。停留所で雨宿りしていたら、軽トラックを運転した老婆が畑の坂を登って消えてしまった。


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